プリムスの伝承歌-宝石と絆の戦記- 短編集
シン
”隣国の国境線で不穏な動
きあり”と通達され、俺たち少年兵は国境線近くの森付近で警備をしていた。いつまで軍にいるのかと自問する。
母親が病で亡くなったのは十五歳のときだ。薬代を稼ぐために軍に入ったのだが、母親が亡き今、ここにいる必要はない。しかし、辞
めたところで特にやりたいことはなかった。今更自分の街へ戻っても誰もいない家が待っているだけだ。父親と同じように国のために働いて生
涯を終えようと思っていた。
少年兵の仲間の輪から少し離れて星空を眺める。
「シン。どうした? いつも仲間と馬鹿みたいに騒いでいるのに」
彼は小麦色の髪を揺らして隣に座った。俺たち小隊の隊長だ。俺より一つ上の十八歳で隊長を任されている。今回の警備は五つの隊が
派遣され、司令官は他にいる。つまり隊長はごちゃごちゃしている俺たちのまとめ役みたいなものだ。
「なんでもねぇよ」
「相変わらずの口調だな。司令官の前では慎めよ」
隊長は苦笑いをしていた。彼は俺を何かと気にかけてくれている。初めは天涯孤独になった俺への同情だと思っていた。わざと避けて
いたが、それでも熱心に面倒をみてくれている。いつしか反抗心は消えて、俺の中では兄のような存在になっていた。
「シン。最近の噂知っているか?」
「もしかして特別指令の話?」
「あぁ。特別指令を受けて帰ってきた少年兵はいない。おかしいと思わないか?」
「そりゃそうだけど……」
数年前から少年兵に向けて特別指令となるものが年に数回ある。試験がありそれに合格した者の中から十数人、特別指令を受けるらし
い。極秘任務らしく、給金が今の三倍まで跳ね上がるそうだ。
しかし、特別指令を受けた少年兵は誰ひとり帰って来なかった。任期中だと思っていたが、初めて指令を受けた人たちは四年経ってい
る。入れ替わり制ではないらしい。そのため一部の少年兵の間では悪い噂が立っていた。
「シン。軍にいる必要がないなら近いうちに辞めたほうがいい」
「はぁ? 辞めるって……。そこまでか? 辞めるとき面倒なの隊長知っているだろう」
ミステイル王国はガルツ王子が軍政に関わるようになってから、軍事力を強めるようになっていた。そのため戦力外の奴以外は軍を辞
めるのに面倒くさい書類を何枚も書かされ審査期間もある。
「……悪い。お前の人生に口を挟むことじゃないな」
「気にするな。それにあんたを置いて辞めるだなんて俺にできると思うか?」
隊長は嬉しそうに俺の頭を乱暴になでる。隊長は少年兵といえども地位を与えられているので簡単には辞められないだろう。それに噂
の特別指令は試験を受けなければならない。無作為に試験を受ける人を選んでいるらしく、俺は未だに当たったことはなかった。
ある日、王都の兵舎へ久々に帰ってきた俺たちの隊は会議室に集められた。しばらくすると司令官と数人の兵士が現れた。兵士のひと
りは丸い穴の空いた木箱を抱えている。
「今から特別指令の試験を行う。この中に手を入れて中のものを掴み、感じたことを正直に話せ」
噂の試験が行われるようだ。危険なものでも入っていて、度胸試しでもするのだろうか。最初に呼ばれた奴は、おそるおそる手を入れ
た。そのあと、何事もなかったようで安堵の表情をうかべて手を抜く。どうやら危ないものが入っているわけではなさそうだ。
終わった奴から会議室を追い出されていく。俺は近くにいた隊長に話しかけた。
「隊長。あの中身なんだろうな」
「さぁな。でも何か嫌な予感がする……」
隊長は顔をしかめていた。俺の番になり木箱の中に手を入れる。何かひんやりとしたものが手に触れた。ごつごつした岩のような感じ
がする。
そのとき、てのひらがぞわりとした。何かになでられるような感覚があり、思わず木箱から手を出す。
「何だ? どうした」
「いや……。何か変な感じがした」
木箱の隣にいる兵士は何かを記録しているようだ。そのあと、もう一度触れろとはいわれずに会議室の外へ出された。
全員の試験が終わり、隊長が皆に聞いたところ十二人中、俺と隊長を含めて四人が中のものに触れて何かを感じ取ったようだ。
試験があった一週間後、兵舎の掲示板に特別指令が張り出された。その中に俺と隊長の名前が書いてある。全員で十六名のようだ。試
験のときに何かを感じ取った人が選ばれたのだろう。
選ばれた奴は給金が上がるとよろこんでいる。俺は独り身なので給金が上がるのは特によろこばしいことではなかった。
その日にすぐ司令官に呼び出され、特別指令を受けた奴は馬車に詰められる。これからある場所へ移動するそうだ。何をするのか説明
も不十分。よほど情報を漏らされたくないのだろう。
二日ほどで目的の場所へ着いた。広大な敷地が高い塀に囲まれている三階建ての建物だ。周りは森でミステイルのどの場所にいるの
か、わからない。
俺たちをひとつの部屋に押し込めると、またひとりずつ呼び出される。皆、どんな特別な任務なのだろうと希望に満ちあふれていた。
その中で隊長だけは浮かない顔をしている。
「隊長。給金上がるからよかったな。俺はあまり関係ないけど」
「あ……あぁ。上手く言えないがここはあまりよくない場所だと思う。虫の知らせっていうやつかな」
「あんな塀に囲まれているから不安だよな。今からの任務は機密なんだろう」
「……俺の杞憂だといいな」
隊長が呼ばれ皆がいる部屋から消えた。
俺の番になり、個室へと押し込まれる。突然口を布で覆われ、目の前にある机にふたりがかりで上半身を押しつけられる。なぜこんな
ことをされるのかわからず、思考が追いつかない。
「いいぞ。やれ」
左手の甲に紫色の石が置かれると、ひとりの男が手をかざした。全身を針で刺されたような痛みが走る。口に布が当てられていなかっ
たら俺の絶叫が響いていただろう。
「うぅっ! ぐっ!」
酷い眩暈がして気持ち悪い。浅い呼吸を繰り返しているとふたりの兵士が乱暴に俺の両脇をかかえて引きずっていく。
地下に連れて行かれるとひとつの部屋に押し込まれた。部屋というより牢屋のほうが表現的にあっているだろう。
牢屋の中にはふたつの簡易的な寝台があるだけだ。立ち上がれずに床に這いつくばっていると隊長が駆け寄ってきた。隊長は先に牢屋
に入れられていたようだ。
「シン! 大丈夫か?」
「……これが大丈夫に見えるか?」
まだ眩暈のする頭を押さえながら立ち上がる。隊長に支えられて寝台へと座らされた。不意に隊長と自分の左手の変化に気がつく。中
指に見慣れない刻印と葡萄色に染まった爪。宝石を宿した証だ。
「俺たち宝石を宿されたのか?」
「あぁ。これはアメジストが宿った証だ」
「宝石宿すって言えばいいのに乱暴だな」
「シン。アメジストのこと知らないのか?」
アメジストの魔法は相手の精神や肉体の支配。ダイヤモンドと同様、適合者が少ないと有名な宝石らしい。
「へぇ。それでこんなもの宿して魔法使わせるってこと?」
「俺の憶測だが試験のとき、箱に入っていたのはおそらくアメジストだろう。少しでも適合の可能性がある奴が、特別指令としてここに
連れてこられるのだと思う」
適合者が少ないと聞いて今の状況に不安を抱いた。もし適合者なら丁重に扱われるはずだ。牢屋に押し込まれている奴らを見ると連れ
てこられた全員不適合だったのだろう。いくら馬鹿な俺でもそのくらい察することができた。
「……。隊長。俺たちどうなるんだ?」
「このまま侵食症に侵されて死ぬまで被検体にされるんじゃないのか……」
不意に別の牢屋から泣きわめく声が聞こえてきた。
「嫌だ! 家に帰して! 死にたくない! 死にたくない!」
「落ち着け! 泣いたところでここから出られるわけじゃない!」
隊長は慌てて他の牢屋にいる少年兵たちを慰めた。多分隊長の言ったことはあっているだろう。外すつもりなら不適合とわかった時点
で外せばいい。そうしなかったということは他に目的があるからだ。
焦るより脱出方法を考えよう。寝台に寝転び岩の天井を眺めた。
隙を見て脱出しようと思ったが甘かった。不適合者はわけのわからない薬を投与され、魔法を使わせる。それの繰り返しだった。指示
に従わない奴は暴行をされるので言うことを聞くしかない。俺は薬の副作用が酷くて魔法を使っている場合じゃなかった。
薬の投与ばかりされ、気持ち悪くて食事もできない日々が続く。皆、体力が落ちて廃人みたいになっている奴もいた。
ある日、別の牢屋から悲鳴が聞こえる。俺たちの見張りをしている兵士たちが駆けつけ、ひとりの少年兵を引きずり出した。
身体の左半分が紫色の結晶で覆われており、目は見開かれたままだ。それを見た少年兵たちは動揺して、叫びはじめた。
「うるさい! 黙れクソガキども! 殺されたいのか!」
見張りの兵士が抜剣をして牢屋の柵に剣を叩きつける。それを見た皆は口を閉ざし、すすり泣く声が聞こえた。
俺は眩暈と吐き気で泣きわめく気力さえない。隊長が心配そうな顔をして俺のそばまで来ると前髪をなでた。
「シン。大丈夫か?」
「なんとか……。あいつは死んだのか?」
「あぁ。結晶が心臓か肺にでも到達したんだろう」
隊長が一緒でなければ今ごろあいつらと同じで気が狂っていたかもしれない。
侵食症の進行は個人差があるようで、俺はまだ結晶化していなかった。隊長の左手を見ると手首まで既に結晶化している。
「シンはまだ結晶化が始まっていないんだな」
「でも左手は痛いし、吐き気が辛い」
「吐き気は薬の副作用だろうな。水くらい飲め」
水の入った容器を口元に当てられたので少し飲む。眩暈がして意識が飛びそうになった。
意識がもうろうとしている中、隊長の顔を見ると彼の瞳には何かの決意の光が宿っている。
「……俺が……シンを助ける」
俺を助けてどうする。動けるならひとりで脱出しろ。俺は言葉にできず意識を手放した。
隊長はことあるごとに
俺の体力がないことを理由にして代わりに実験へ向かった。止めろといっても聞かず、何度も代わりに連れて行かれる。その間にも少年兵
の死者は増えて今は八人しかいない。
俺の体力はあるていど回復したが、代わりに隊長の体力は奪われ、痩せ細っていく。
その日、実験から帰ってきた隊長は酷く衰弱していた。牢屋につく直前で足がもつれて倒れる。
「しっかり歩け!」
「……すみません」
牢屋に押し込まれ、倒れている隊長のそばに駆け寄る。肩を貸して、寝台へと運んだ。あまりにも衰弱しているので不安になる。
「……隊長。水飲むか?」
「あぁ。ありがとう」
弱っている隊長に水を与え、そのままゆっくりと寝かした。隊長は苦しそうに呼吸を繰り返している。
「俺、明日から隊長の代わりに行く。もう十分だ」
彼は俺を見ると首を横に振った。いくら行くと言っても明日は絶対に行かせない。
「シン……。手握ってくれないか?」
「……あぁ」
隊長の冷たい右手を両手で包み込む。隊長は満足そうに弱々しくほほ笑んだ。
「シン。こんなこと言うとお前は怒るかもしれないけど、シンと俺の死んだ弟はよく似ているんだ。生意気なところとか優しいとこ
ろとか……」
隊長に弟がいたことは知っていた。幼いころ病で亡くしたらしい。隊長の弟と俺が似ていたから面倒をよくみていたのだなと納得
する。
「……俺は弟の代わりじゃない」
「わかっている。最初はそういう感情で接していたんだ。でも……今は、シンのこと、本当の弟と思っている」
「……何言っているんだ……」
わざと悪態をつく。口には出さなかったが俺は隊長のことを本当の兄のように接していた。
なぜ隊長がわざわざそんなことを口にするのか考えたくなかった。
「……シン。一度だけ、俺のこと兄と呼んでくれないか?」
隊長に懇願するような目を向けられた。まるで最後の言葉のようだ。
「……馬鹿野郎。誰が呼ぶか。そんなことよりここから脱出する方法を考えろ」
隊長が右手を握り返す。俺は薄々気がついていた。隊長は侵食症がかなり進行していて、僅かな時間しか一緒にいられない。それ
でも俺は認めたくなかった。
「……シン。頼む」
いつのまにか俺の目からは涙が溢れていた。悔しさ、悲しさ、やるせない気持ち。言葉が出ない代わりに涙が流れる。くすんだ灰
色の敷布に染みを作った。
「……兄さん……」
無理やり笑顔を作って言葉を紡ぐ。隊長は満足そうにほほ笑むと俺の頬に伝っている涙を拭った。
「ありがとうシン。今日はよく眠れそうだ」
「……いいからとっとと寝ろよ」
袖で涙を乱暴に拭う。隊長を見ると真剣な表情で俺を見ていた。
「もし無事にここから脱出して、結晶化が始まっても諦めるな。生きてくれ……シン」
隊長はその言葉を言うと気絶するように眠った。脱出するにも出口までの経路がわからない。そして隊長を抱えて脱出することを
考えないといけない。俺は明日から脱出する方法を考えることにした。
次の日、隊長を実験に連れて行くために兵士ふたりがやってきた。
「出ろ。時間だ」
隊長が出て行こうとしたので俺は手を掴んで制止した。「俺が代わりに行く」言葉が出かけた瞬間、勢いよく隊長に突き飛ばされ
た。足が寝台にぶつかりそのまま派手に床に倒れる。
「……ありがとう。シン」
「た……隊長!!」
そのまま隊長は兵士に両脇を抱えられ、連れて行かれる。届かないのはわかっているが鉄格子の間から手を伸ばした。
「隊長!! 何でだよ!」
隊長は歩きながら振り向くと口元が動いた。声には出していないがゆっくり動く。俺はかろうじで隊長が何を伝えたかったのか理
解した。
隊長が実験から帰ってきたら説教をしてやろう。あの意味は何だと問い詰める。
しかし、いくら待っても隊長が戻ってくることはなかった。俺の牢屋へ夕食が運ばれたのはひとり分だけ。それで理解した。隊長
は死んでしまったのだと。
彼と一緒に脱出して、ミステイル国から亡命も覚悟していた。隊長とふたりだったらどんな国に行っても生きていける。ここから
脱出したら改めて「兄」と言いたかった。
寝台に横になり隣の空いている寝台を見つめる。食事も取らずに悲しみに打ちひしがれていたとき、不意に隊長が最後に伝えたこ
とを思い出す。
まくらのした――――。
隊長が寝ていた枕の下に手をいれると何かがある。ふたつに折ってある紙だ。持ち上げると同時に紙の間からするりと何かが布団
の上に落ちた。
それは一本の鍵。
慌てて鍵を拾い上げ自分の服の中に収める。紙を見ると血らしきもので簡易的な図が書かれていた。そして一カ所に丸が書いてあ
る。
これを見てすぐに理解した。出口までの経路だ。紙の間から落ちた鍵は牢屋の鍵ではない。出口で使うのだろう。
隊長が俺の代わりに何度も行っていたのは、俺の体力を回復させるのと経路を覚えるためだ。鍵も隙を見て兵士から盗んだのだろ
う。すべて俺を逃がすために。
「……馬鹿野郎」
いない相手に言葉を吐く。隊長がしてくれたことを無駄にはしない。俺はここから脱出を決意する。
見回りの兵士がふたり歩いてきた。俺は寝台の上で苦しみもだえる。
「うぅ……痛い……痛い」
異常な苦しみかたをしたので、兵士が牢屋の鍵を開けて入ってきた。
「な……何だどうした!?」
「こいつ研究員に見せたほうがいいんじゃ……」
引っ張り出そうと手を伸ばした瞬間、俺は勢いよく起き上がる。ひとりのみぞおちを殴りつけ、もうひとりの首を強打する。膝を
ついたふたりに追い打ちでこめかみに蹴りを入れると気絶した。
「見張りばかりで身体が鈍っているんじゃねぇのか?」
倒れている兵士ふたりを布で縛り上げていると、別の牢屋から狂ったような叫び声が聞こえてきた。
「シンてめぇ! ひとりで逃げる気か!」
「ふざけんじゃねぇぞ!」
鉄格子を壊す勢いで暴れている。生き残っていた少年兵たちは俺をにらみつけていた。目が血走っていて正気ではない。長い間、
被検体にされて心が壊れかけているのだろう。
俺は倒れている兵士から鍵束を取り、ひとりの牢屋へ投げ入れた。
「逃げるなら好きにしろ。ただ俺は自分のことで精一杯だ」
「鍵さえあればいいんだよ! みんな脱出するぞ!」
鍵を渡した少年は次々に牢屋を開け、皆を引き連れて出て行った。出たいのはわかるが、少し考えれば無策で出て行けば捕まるか
殺される。そこまで思考力が落ちている奴を俺は助けられない。
倒れている兵士から帽子と服を剥ぎ取り、剣を奪った。そうしている間に上から騒がしい声が聞こえてくる。逃げ出した奴らが見
つかったのだろう。
俺は急いで兵士になりすますために服の上から兵士の服を羽織り、上の階へと向かった。兵士たちが慌ただしく走り回っている。
混乱に乗じて出口までの道を迷うことなく走った。
兵士は脱走した奴らを探すのに夢中で、変装した俺には目もくれない。
「おい! お前!」
もう少しで出口というところで呼び止められる。声を掛けてきたのは司令官。奴は俺の顔を知っているので見られたら終わりだ。
なるべく俯いて顔を見せないようにする。
「はっ……はい。何でしょうか」
「被検体のクソガキどもが逃げた! 見なかったか!」
「いえ……まだ探していまして」
「くそ! こんなことガルツ様に知れたら……」
ぶつぶつとひとりで愚痴をこぼしている。早くこの場から立ち去りたいが、疑われないためにも黙っていた。もし正体が露見した
ら、持っている剣で殺すしかない。緊張と焦りで鼓動が早くなる。
「見つけたら殺しても構わん! 逃がすことだけはするな!」
「かしこまりました」
司令官は足早に走り去った。俺はため息をついて、出口までの扉へ向かう。幸い見張りの兵士はいなかった。鍵を取り出して震え
る手を押さえながら鍵穴へ差し込む。
小さな鍵の外れた音。取っ手に手をかけて回すと扉がゆっくりと開いた。
何ヶ月ぶりの外の世界だろうか。冷たい夜風が髪を揺らした。
あたりを見回すとどうやら建物の裏手のようだ。塀の近くに木があり、伝っていけば塀を越えられる。
周りに兵士がいないことを確認して木を登り始めた。もう少しで脱出だ。
「お……おい! お前! 何しているんだ!」
開けっぱなしにしていた扉から兵士が慌てて出てきた。兵士は脱走だと大騒ぎを始める。急いで登り塀を越えて近くの森へ逃げ込
んだ。
心臓が破れるのではないかというくらい全力で森の奥へ逃げる。追われる恐怖を振り払いながら森の中を走った。
生い茂っている草むらに身を隠して息を整える。幸い追手の足音は聞こえてこない。
「……隊長。あんたが望んだ通り逃げ出したぞ」
頬を涙が伝う。一人で逃げてどうなる。なぜ俺は誰も助けられない。母親も隊長も大切な人を助けられなかった。むしろ守られて
ばかりだ。自分の弱さと無力さが悔しかった。
ひとしきり泣いたあと、木々の間から見えた月を見つめる。
もう母親と隊長に何かをしてあげることはできない。その代わり大切な人ができたら今度こそ自分の手で守る。
突然、左手が痛み出し、腕を押さえた。手を見ると指先に紫色の結晶がまとわりついている。とうとう俺の結晶化が始まった。
「……。どれだけ耐えられるかわからないけど足掻いてやるよ」
――――。
「シン……」
目を開けると長い銀髪の少年が心配そうな表情で俺を見ていた。いつのまにか寝ていたようだ。少年の手が伸びてきて俺の頬を
伝っていた涙をすくい取る。
「大丈夫? 嫌な夢でも見ていたの?」
夢を見ていたがぼんやりとしか思い出せない。彼を心配させないように笑う。
「夢見てたけど……忘れた」
「シンらしいね。そろそろ夕飯だよ。一緒に行こう。クラルスも待ってるよ」
少年は柔らかい笑顔を向け、俺の前に手が差し伸べられた。手を引かれて立ち上がり、彼の頭を乱暴になでる。
「わっ! 何!?」
「何でもない! 行こうぜリア!」
リアの手を引いて走り出す。彼の手を離さないように少しだけ強く握った。
2020/12/27 up